主に、読書録

20代男による読書感想文です。

理解できないものへの態度

こんにちは。ドラコンです。

 

今日は『これが現象学だ』(2002、谷徹、講談社現代新書)の感想について書きます。

 

現象学ってなんだ。わたしたちは様々な学問的、科学的発展のおかげで生活できている。科学の色メガネをかけながら、世の中を理解しているのだけれども、それって事象そのものをきちんと見ているの?そんな疑問に応える学問ということらしい。

 

今目の前にあるものを見る態度を主題にした学問が現象学。ここだけ聞くと、自然科学と何が違うの?と思う。しかし、それらの自然科学の基礎にあるもの、共通するものは何かと言われるとよくわからない。まずは、今目の前にある現象、事象を見てみよう。そしてそれを理解するとはどういうことか、考えてみようというメタレベルの学問が現象学のようだ。

 

なかなかわかりにくい。

主題になるのは見ること、つまり主観だ。今見えるものの正しい姿を捉えようとする態度が要求される。自分が中心にあるイメージができあがる。自分が中心となり、物を捉える。そのものとの距離感、大きさを捉える。

目に見えるのは物だけではない。人も見える。見えるだけではない。会話ができる。理解できる。逆に理解できないこともある。理解できないものは不気味だ。

 

。。。

よくわからない。

現代っ子っぽく解釈すると、現象学というのは、一人称視点でやるゲームのメニューに関する学問なのだと思う。しかもこのゲーム、道具に名前がないのだ。使い方は自分の目で見て判断しなければならないようだ。要するにニューゲーム状態の、最初の町の主人公の状態が想像される。

 

ポケモンのようなゲームではない。ポケモンでは三人称視点(あるいは神の視点)でしかマサラタウンを表示できない。サトシ視点でポケモンをプレイするその見方に関する研究、これが現象学ということだろうか。

 

ソードアートオンラインの世界観だとより正確な理解だろうか。SAOだとフルダイブ環境でのプレイなので一人称だ。しかも、道具も何もかも自分で取得していかなければならない。

 

このような環境で、現象を感覚によって経験によって捉えていく。捉えきれないものについて困る。階層が上がるにつれて難易度が上がる。アルゴリズムがわからないものは不気味だし、不安だ。

 

自分の経験だけで判断できないことについては不安が募る。理解できないものとはどのようなものか、言い換えれば複雑なアルゴリズムを持つものは何か。答えは人間だ。他者だ。わかりあえる人だけが存在しているわけでない。

 

他者のわからない部分を強調して、現象学ではこれを異他性という。著書でも異他性についてふれられているが、異他性の克服についてはおそらく異文化コミュニケーションとか対話の重要性とかの文脈の方が詳しいだろう。