主に、読書録

20代男による読書感想文です。

【読書】愛とか正義とか

哲学をするために大事なこととは
1.意見の相違をみつめる。偏見を取り除く。
2.本当に哲学するに値するか調べる。
 哲学をするためには何が必要だろう。まずは関心を持つが大事だ。関心の対象は身近なものでよく、別に高尚なものである必要はない。ただし関心を持つと言っても、調べてわかることは、哲学的な疑問にはならない。本やインターネットの調べれば答えが出てしまう。調査してもわからないことは哲学的疑問になり得る。
 では自分の関心から疑問を持ったことが調べてもわからず、哲学的疑問になりうるだと判断したら何をすれば良いのだろう。
 本書で挙げられていることは以下の通りだ。語源を調べる。身近な例を考える。素朴でもいいから意見を出す。だが意見は、時に議論がかみ合わないことがある。(というかだいたい合わない)このような場合は、前提を確認することが重要だ。その人がどういうレベルで言っているのか、何を目的として発言しているのか、自分の意見とどこに違いがあるのかを確認する。これらの作業をやっていくと、次第に大事にしなければならないポイントが見えてくる。同時に独りよがりの信念や偏見を取り覗かなければならない。哲学は論理で一貫性を保ちながら説明することを大事にするので、信念を語ることは哲学にそぐわない。
 こうして議論の中でわかった大事なものを抽出する。抽出された大事なものを概念と言う。その概念には、名前をつけても良い。哲学はこの概念を操作することが中心の作業となる。概念を操作するとは何か。概念を違う分野に適応することによって疑問自体がが消滅したり、変化する。
 本書では哲学の初歩的なやり方について述べてある。実際に正義・愛・自由という概念について検討がなされている。
本書を読む中で疑問に思ったことは、哲学的疑問になり得るための前提として、「調査してわからないこととは何か」ということだ。
 調査してわかるとは具体的にはどのようなことか。例えば、科学では仮説と検証という考え方がある。ある人が仮説を立てて、別の人が検証する。検証が成功することによってその仮説を証明する。他にも、人伝えに聞く、本に書いてあることを理解する、等がある。
 調査してもよく分からないことについて考えることが、哲学なのか。「わからない」にも種類がある。
 検証に失敗し、証明できなかった。失敗した原因について考えるのは考察と呼ばれるがそれは哲学か?文献調査で引用元が結局わからなかった。調査不足でどこに書いてあるかわからなかった。そもそも科学的に解明されていないので調査のしようがない等々。
 哲学的疑問になるのに確実なのは、調査のしようがないものだ。だが、科学が発展すればするほど、調査してわかることは増えていくはずなのに、哲学してしまうということは、世界はあまりにも謎が多いということなのだろうか。
 概念を作る過程では、偏見を認識し取り除くことが重要だ。偏見とは、自分で無意識に持っている考え方と言われている。また信念は偏見になりやすい。
 何かを信じて疑わないことは偏見になる。それを避けるためには、批判的に検討することが大事である。これは偏見ではないか、と。ただそうは言っても、それが偏見に気づかないことの方が多い。哲学は論理的に説明することを大事にしている。論理的な誤りは気付きやすいものだ。ところで信念については、論理が飛躍していても、本人はそれに気づきにくいという性質があるように思われる。何かを話していていて、いきなり自分のこうなったらいいなという結論に飛びついてしまうのである。そうならないように気をつけたいものだ。

理解できないものへの態度

こんにちは。ドラコンです。

 

今日は『これが現象学だ』(2002、谷徹、講談社現代新書)の感想について書きます。

 

現象学ってなんだ。わたしたちは様々な学問的、科学的発展のおかげで生活できている。科学の色メガネをかけながら、世の中を理解しているのだけれども、それって事象そのものをきちんと見ているの?そんな疑問に応える学問ということらしい。

 

今目の前にあるものを見る態度を主題にした学問が現象学。ここだけ聞くと、自然科学と何が違うの?と思う。しかし、それらの自然科学の基礎にあるもの、共通するものは何かと言われるとよくわからない。まずは、今目の前にある現象、事象を見てみよう。そしてそれを理解するとはどういうことか、考えてみようというメタレベルの学問が現象学のようだ。

 

なかなかわかりにくい。

主題になるのは見ること、つまり主観だ。今見えるものの正しい姿を捉えようとする態度が要求される。自分が中心にあるイメージができあがる。自分が中心となり、物を捉える。そのものとの距離感、大きさを捉える。

目に見えるのは物だけではない。人も見える。見えるだけではない。会話ができる。理解できる。逆に理解できないこともある。理解できないものは不気味だ。

 

。。。

よくわからない。

現代っ子っぽく解釈すると、現象学というのは、一人称視点でやるゲームのメニューに関する学問なのだと思う。しかもこのゲーム、道具に名前がないのだ。使い方は自分の目で見て判断しなければならないようだ。要するにニューゲーム状態の、最初の町の主人公の状態が想像される。

 

ポケモンのようなゲームではない。ポケモンでは三人称視点(あるいは神の視点)でしかマサラタウンを表示できない。サトシ視点でポケモンをプレイするその見方に関する研究、これが現象学ということだろうか。

 

ソードアートオンラインの世界観だとより正確な理解だろうか。SAOだとフルダイブ環境でのプレイなので一人称だ。しかも、道具も何もかも自分で取得していかなければならない。

 

このような環境で、現象を感覚によって経験によって捉えていく。捉えきれないものについて困る。階層が上がるにつれて難易度が上がる。アルゴリズムがわからないものは不気味だし、不安だ。

 

自分の経験だけで判断できないことについては不安が募る。理解できないものとはどのようなものか、言い換えれば複雑なアルゴリズムを持つものは何か。答えは人間だ。他者だ。わかりあえる人だけが存在しているわけでない。

 

他者のわからない部分を強調して、現象学ではこれを異他性という。著書でも異他性についてふれられているが、異他性の克服についてはおそらく異文化コミュニケーションとか対話の重要性とかの文脈の方が詳しいだろう。

 

 

 

知的自由人

こんにちは。ドラコンです。

前回更新したのが、52日前らしい。繁忙期怖い。

 

さて今日は軽めに。

乱読のセレンディピティ 外山滋比古

 

狭い自分の専門分野に囚われず、自由に思考できる人間。知的自由人になるにはどうしたらよいか。自分の分野に囚われている人間は「専門バカ」というらしい。

セレンディピティとは、思いがけない発想のことを指している。好奇心に従って、いろいろな本を読み、頭の中で一旦眠らせる。その後、何らかの拍子にふとそれらがリンクし、新しい発想が生まれる。

正しい理解ではないかもしれないが、正反合を思い出す。しかし、正反合はセレンディピティそのものではない。なぜなら、反の出現は、正を前提にしているからだ。セレンディピティを正反合流に解釈するなら、正正合といったところだろうか。ただし、前の正と次の正の発生の距離があればあるほど、より一層思いがけない合が生まれそうである。

 

これも一種のセレンディピティか。

だとしたら思いがけない発想というのは、突拍子も無い発想なのではなくて、教養の延長線上にあるものなのだろう。勉強を続けよう。

 

 

 

 

【読書】今こそアーレントを読み直す

こんにちは

 

読書感想投稿一冊目です。

今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹、09年、講談社

 

全体主義とは何か。私にはポピュリズム衆愚政治との違いが明確ではない。例えば既得権益などの民衆の嫌われ者のような「敵」を「敵」として仕立て上げ、それを攻撃する姿勢を民衆にわかりやすくアピールする。そして民衆がそれに扇動されるままに右へ左へ流れるままに思考停止してしまう。そしてその世界観に染まらない人を異端として排除する。このような排他的で異論の余地のない状態が全体主義であると理解している。言い換えれば、ある問題についての行き過ぎた信念が、対等なディベートを許さない状態とでもいえようか。

 

そんな全体主義に対して、その起源や対策を考え抜いた哲学者がアーレントである

全体主義に陥らないためには、公的な場で、しがらみのない自由な議論ができることが必要であると主張した。また部屋に引きこもっての思索は独りよがりになってしまうので、望ましくない。人間が複数人いて、なおかつ意見がばんばん出る空間ー仲正氏の例示では学校のホームルームような空間ーが必要であるとした。

 

このところだけ抽出すると、ビジネスでいえば部下の意見を聞こうとしない独りよがりの上司と、急進的改革を実行する社長がいる会社が浮かび上がる。この場合、部下と上司では立場が違うにしても、上司が部下の話を聞かずに社長に追従する姿は全体主義における異論の排除、対話する他者がいない状態に近くなるだろう。私は、この

状態を反論可能性の不在問題と名付けたい。(科学哲学のポパー反証可能性とは区別したい。勉強不足のため。)

 

全体主義の本質は、反論可能性の不在。

全体主義に陥らないためには、敵を作って攻撃する勧善懲悪物語になっていないかとか、特定の団体的な世界観による判断なってないか注意するために、科学主義、証拠主義に依拠するするとかが考えられる。ただし、科学主義、証拠主義も一つのイデオロギーに過ぎないという立場はここでは取らない。しかし、僕が強調したいのは、一人一人が考える力を、疑う力を持つことである。マッチョ思想とでも言えるかもしれない。多角的な思考、ディベート技術を持つ人が増えればいいなと思うところであるが、なかなか難しいところである。

 

ところで、この本を読んでいて、思い出した本を2つあげたい。

・自由論(J.S.ミル)の第2章「思想と言論の自由

・武器としての決断思考(瀧本哲史、11年、講談社)第4章 「「反論」は深く考えるために必要なもの」

 

これらについて紹介する余力がないのが、残念だが、また機会があればする予定。

健全な社会、健全な議論のためには、第一に反論があることを予想すること、さらに進んで反論について熟知することが重要である。 

 

手始めに

新年あけましておめでとうございます。

 

というには時間が経ちましたが、、、

 

2017年の目標はブログを開設して、続けることです。

 

とうとう開設しました。

 

ネットにまとまった文章として公開するのはなかなか緊張しますね。

 

数年後に黒歴史にならないように頑張って行きたいと思います。

 

 

 

なぜブログを始めるのか?

 

僕はこれまで3年間読書を習慣にしてきました。

 

ただ、感想を書こうにも、どうにも文章にならないことが多かったんですね。

 

で、短文ならできると思ったけれども、ツイッターに感想を書き並べることもあったのですが、やはり何か違う…

 

自分の思いのままに、自分の思いを書き連ねたい。

 

なのに、なぜか、できない、そしてやらない、、、

 

時間だけが経ちました。

 

で、突然ブログをやろう。うおおおおおおおお

 

と現在思った次第でございます。(平成29年3月4日時点)

 

自分でもよくわかりませんが、こういうときは頭で考えるよりも

 

実際に行動に移したほうがよいので、勢いのままこの文章を書いています。

 

 

おそらく、自己表現欲求が高まっていたのでしょう。

 

自分の言いたいことが溜まったからなのでしょう。

 

ですので、思い先行でしばらくはブログの形式、文章の形式はあまり気にしないで行きます。

 

感情ファースト!

欲求ファースト!